GeoPossession 声のトポス特別企画
参加詩人 藤井貞和氏による作品巡回ツアー
Report & Interview.
東京都内14カ所を巡り、デジタル上に設置された3Dオーディオ作品を、Kalkul Auraアプリを通して視聴する、サウンドアート体験「GeoPossession 声のトポス」。
2022年1月15日のスタート直後、一足先に体験する参加作家(詩人 藤井貞和氏)に同行し、お話をうかがってまいりました。
※藤井貞和氏の特設ページはこちらから
体験日時:2022年1月26日(水)13:00〜14:10
※所用約1時間
【当日巡回コース】
①神田
JR神田駅の中央線ホーム上にて合流。そのままホーム上にて藤井貞和氏の詩「神田駅で」を視聴。
その後改札を出、録音した場所=高架線下に移動。再度「神田駅で」を視聴。
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(山手線に乗車。神田駅から上野駅へ移動)
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②上野
中央口改札から出、すぐ右手にある『あゝ上野駅』歌碑前にて、額田大志氏の戯曲「ぼんやりブルース」を視聴。
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(山手線に乗車。上野駅から巣鴨駅へ移動)
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③巣鴨
JR巣鴨駅からは徒歩で「とげぬき地蔵」方面へ。高岩寺境内にて伊藤比呂美氏の詩『とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起』を視聴。
体験後インタビュー
体験者:藤井貞和( 詩人、「GeoPossession 声のトポス」参加作家)
聞き手:永方佑樹 (詩人、Cōem「Geopossession 声のトポス」クリエイティブディレクター・キュレーター)
※以降、藤井貞和氏のコメントは冒頭に「藤」、聞き手である永方佑樹のコメントは「永」と表記いたします
朗読への抵抗がある世代だった
永:藤井貞和さんには昨年の10月28日(木)、今日訪れていただいた、まさにその場所(神田駅高架線下)にて、自作品の詩「神田駅で」を朗読していただきました。朗読はどうでしたか?
藤:世代というのがあって、私どもの世代の上のほう(戦争世代)は朗読に抵抗がある、基本的に朗読拒否の世代です。60年代に朗読していたのは、吉増剛造さんやビート詩人等だったんじゃないかな。というのも、坪井秀人さんが『声の祝祭』で書いた通り、戦争詩=朗読詩というイメージがあるんです。
昔はね、ラジオが頭上の鴨居にあって、つまり上の方から詩の声がおりてきて、戦争を鼓舞されていたのでしょう。だからどうしても声の詩=朗読に対する拒否感があったのではないか。それで長い間、朗読はやらなかったんです。
それからしばらくして、鈴木志郎康さんから「朗読をやってみよう」という話になって、沖縄でやってみるということになったんです。
沖縄で取り戻した「声」
藤:80年代の半ば頃だったかな。1972年の「復帰」の前後、沖縄では復帰あるいは反対運動を、詩人達が先頭に立ってやっていたんです。そういう、文化を切り開く沖縄詩人と交流したいという気持ちがあったんですね。
場所は沖縄ジアンジアンというライブハウスです。ねじめ正一さんや伊藤聚さん、吉増さん、阿部岩夫さん、何人も、それに熊本から参加した、だれだと思います? 伊藤比呂美さんです。伊藤さんの初めての朗読だったと思う。
この沖縄で、「声」で社会の先端を切っていた沖縄詩人たちの力を借りることで、私たちの朗読が解きほぐされ、「声」を取り戻す機会となったと思います。だけど、私よりも上の世代は、やはり戦争詩への拒否感があって、未だに朗読NGの方も多いですね。
日本の現代詩人特有の、朗読への拒否感
永:現代詩が伝統的に朗読への拒否感が強いといった傾向を、私も以前から感じてはいました。戦争詩からの忌避が理由の一つだということも、知識としては知っていたのですが、どちらかというと、詩を形作る集中が、発話という身体表現を前提にする事でパフォーマンスへと逃げてしまい、結果的に詩語が薄っぺらくなってしまう、いわばエクリチュール的危機感からの視線の方を、私は強く感じていたんです。
でも今回お話を聞いて、戦争詩への拒否感というのが、戦時中に朗読という形で幾度も問答無用に聞かされ続けた、非常に身体的な記憶からであるということ、上から押さえつけるようにおりてきて耳に染み込まされるという、権威的な強要の形に抵抗する拒否でもあるということは、一つの世代にとっていかに絶対的なものだったかということが、実感としてとてもよく分かった気がします。だからか、こうした朗読への身体的拒否感というのは、日本の詩人特有のものですよね。
藤:そうですよね。ニューヨークその他でも、ヨーロッパでも、普通に日常的に朗読する。だから詩を読むということへの拒否感というのは、日本語の詩人の問題かもしれないです。
今回参加したことで、朗読とは何か、「声」を考える機会になった
永:今回の朗読では、そうした、身体的な拒否感はなかったですか?
藤:ええ、沖縄などでの朗読のチャンスや、ニューヨークなんかでの経験もあって、朗読への抵抗はなくなりました。ですが、今回このプロジェクトに参加したことで、改めて朗読とは何か、「声」について考える、良い機会になったと感じています。
自身の底から立ち上がる「声」に出会う「朗読」。
何百年と遡り、「声」の生まれる不可分の箇所=詩の発生に触れ合うこと
藤:私は文学の発生とか成立とかをずっと考えてきたせいか、朗読の瞬間に自身の底から立ち上がる「声」に巡り会えたら、とは思います。それをふるまいとしてやっているうちに、つまり朗読を繰り返すうちに、何百年か遡ってゆく、時間をのぼってゆくと、詩の発生の、「声」の生まれるところに触れ合えればよいなとは、見果てぬ夢ですが、詩と声との不可分の箇所に触れられるとよいと考えています。
声の割合が低くなり、獲得された「書く」文学
永:私も古典日本文学を研究していたので、とても共感しますし、そうしたところに関心があると、表記だけでなく、声音へと凝視がふかまるものなのかもしれません。私自身、息が声に変わる瞬間の、互いが互いの状態をふくみ合っている様な、分かたれているかいないかの瞬間に「詩」が生まれる、そのように感じています。
藤:そうですね。「声」の昔、それは6世紀、7世紀、歌うことをやめはじめ、声が二の次になってゆく『万葉集』などでは、声が裏がわに貼りついてゆく感じがします。そうして、声のレベルがバーを下げることで、「書くこと」が獲得されていった。
そうして、『万葉集』などから薄れていった「声」の世界が、平安時代になり『源氏物語』になってくると、表音的な書き方になる。音楽的な声の世界、歌の在り方になります。
声が文字とぴったりとはりついている、漢字かな混じり文の『源氏物語』と
裏側に声がはりつく万葉がなの『万葉集』
藤:その点、『万葉集』は声が二重になっているみたい。建前は音の世界だし、中国の漢字音も知っている。だから建前の音の世界が生きているけど、万葉がなとしては漢字だけしか使用できず、日本語的な読みとして漢字を書いていることの無理、ごまかしをしていて、表記の裏に音が貼りつく。
その後、日本語として「かな」が発見され、漢字かな交じりとして完成されて、『源氏物語』などでは音が自然に貼りつく。それは『万葉集』の二重の声と違って、表記と音とがきちんと向き合っているようです。
朗読作品「神田駅で」について
永:今回のプロジェクトは、特定の場所/トポスを舞台にした作品(詩、小説、戯曲、歌詞)を持つ作者に、実際にその場所で作品を読んでいただくことで、作品や作者の声だけでなく、土地と呼応し合った各自の創作行為そのものをも土地/トポスに「奉納」し、トポスの記憶とすること、その記憶の追体験をしてもらう事を目的としています。
そこで、今回朗読していただき、土地の記憶としていただいた詩作品「神田駅で」についても、お話をうかがえればと思います。
藤:今回朗読した詩「神田駅で」は、三層のレイヤーから成り立っています。一番上の表層は、以前に若かった頃、朝まで飲んで、始発を神田駅のホームで待っていた、ある朝方の記憶です。
作品の中心となっているのは、古い「儀礼」を作品にしてみたいという思いと、そのあらわれ。
一番の古層は「神田」という名前。「神の田」という、土地の名前そのものが最も深いところにある層となって、詩をかたち作っています。
「神の田/ 神田」と、田の神へと奉納される予祝的祭事「田遊び」
藤:この「儀礼」というのは、田遊びという、板橋区内で催される古いお祭りです。稲作の所作と、そのしぐさを唱える言葉とを田の神に奉納し、豊作を祈願する、いわゆる予祝のお祭りですね。昨年はコロナ対策として、関係者だけしか見学できなかったみたい。例年だとちょうど今頃、2月の中旬に行われます。
生殖行為が儀礼として行われる、「神の田」に神がおりてきて、成熟した稲を刈り取り、豊穣を祈る。「神田」という名が、そうした行為を引き寄せているように思えたんです。
もし私たちが録音のし易さや、表面的な聞こえやすさを優先してしまい、嘘やチートを紛れ込ませてしまったとしたら、「記憶」は有機的な息づかいを失い、機械的なパフォーマンスのにおいのする、単調なオーディオ体験に過ぎなくなる。そう思えました。
そこで考えたのが、駅の高架線下、という選択でした。
高架線下での朗読風景。この真上に神田駅(中央線)のホームが通っている(2021.10.28)
実際、高架線下で録音し、高架下の緯度と経度でセットした「神田駅で」の録音音声は、ホーム上でもきちんと聞こえて、テスト視聴でどちらの位置からも聴けることを確認出来た時には、やった! となりましたね。
そういう経緯も含めて、この「神田駅で」という作品は、土地のあり方、経度と緯度に関連した「数字」という観念、あるいは記憶の姿等々、様々な方向から視聴を受け止め、考えをめぐらすことが出来る、そういう作品だと思います。
こうした楽しみ方が出来るのは、14作品のうちでも、ここだけです。
ぜひ、本来のトポスであるホーム上と、作者が録音した場所である高架線下と、皆さんには両方で聴いてみていただいて、それぞれの体感の違いを感じ取ってみて欲しいです。
「声と場所を一致させる」という、プロジェクトの斬新さ
永:今回、こうしたジオポジショニングシステムに加え、周囲360度の音声を質感ごと記録する、まさに「記憶の記録」そのものである3Dオーディオを使用して、作家の皆さんのお作品で「詩」を表現していただきました。いかがでしたか?
藤:今回はまさに新しい機械にまみれた、最先端の機器と巡り合う体験でしたね。私はなんだかんだ言って、チャレンジ精神のある世代ですので。
「声と場所を一致させる」というプロジェクトのコンセプトは新しくて、終わった後もその真の斬新さにすぐは気づかなかったけど、行かなくちゃ、と思った。新しいことにチャレンジしたいタイミングでもあったので、チャンスがあったら出かけていくぞ、と。
過去と現在。音の混雑の中で曖昧になる時空間
(戯曲「ぼんやりブルース」額田大志氏:上野駅『あゝ上野駅』歌碑前)
永:今回せっかくですので、山手線で移動しつつ、上野駅前で額田大志さんの戯曲「ぼんやりブルース」のオーディオを、巣鴨の高岩寺境内にて伊藤比呂美さんの詩『とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起』を聴いてみました。まずは上野の「ぼんやりブルース」について、いかがでしたでしょうか?
藤:上野ではボリュームを上げていたからか、一気に声が聴こえてきて、周囲の聴こえてきている音なのか、それとも録音時の過去の音なのか、分からなくなりました。
永:額田さんは音楽家および劇作家として、音と言葉の境目を測り、表現していらっしゃる方で、今回読んでいただいた戯曲「ぼんやりブルース」も段落が縦に多層的に増えてゆく、楽譜の様な骨組みとなっています。
昨年10月に上野で録音させていただいた朗読も、距離や方位を構造的に組み立て、近づいたりマイクのまわりを回ったり、座ったり立ったりして、空間を360度緻密に計算した、身体的空間的な読み方をされていらっしゃいました。
しかもたった数回のリハーサルだけで、瞬時に把握・実施されて。
いかに普段から空間・音声・身体へと神経をはりめぐらしていらっしゃるか、その証左ですよね。
そうして瞬時に把握したそれぞれのファクターを一つの場の上に立体的に再構築してゆく、額田さんの劇作家としての妙を端的に感じ取れるのが、ここでの「ぼんやりブルース」だと思います。
沖縄からはじまり、今の「声」がたどり着いた必然のトポス
(詩『とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起』伊藤比呂美氏:巣鴨高岩寺境内)
私たち聞き手の目の前には、実際に地蔵や寺に向かって手を合わせている人たちがいる、その姿を目にしながら、朗読を聴きます。すると、声として届く祈りの姿と、目にしている祈りの姿とがシンクロしてゆく。作者の声の過去が、今現在の祈りの姿の切実さに接触する事で、生滅変化する姿の奥にあるという、仏教で言うところの、いわば実相的な感触を獲得してゆく、そんな感覚を得られる作品・場所だと思います。
(さいごに)
今回、作者と作品を巡り、その体感を実際にそばで感じ、お話を聞く事によって、個別に聴いていた「声」の記憶が新たに幾重にもめくれてゆくような、大変貴重な時間をいただけたように思います。
視聴に同行させていただき、インタビューをさせていただいた藤井貞和さん、本当に有難うございました。
今後「GeoPossession 声のトポス」では、この様に作者のトークを聴き、作品を実際に巡る「トーク&ツアー」も続々と計画してまいりたく考えておりますので、ぜひご期待ください!
2022.2.5 永方佑樹
※今後のイベントにつきましては、オミクロン株の影響による、コロナ感染症の推移を慎重に見極めながら、適切な時期に開催する予定です。決定し次第、当サイトおよびSNSで告知致しますので、もう少々お待ちくださいませ。
なお、「GeoPossession 声のトポス」自体は屋外での体験&個々の自由なタイミングで楽しむ事が出来るプロジェクトです。三蜜を避けて楽しめる言語体験・サウンドアートとして、ぜひお一人で、あるいは少人数にて各トポスに自由に赴いていただき、作者と作品との静かな対話や、トポスの記憶の追体験をお楽しみください(体験はアプリ利用を含め完全無料です)。