島田雅彦

SHIMADA MASAHIKO

小説 Novel


『ニッチを探して』新潮社

向かいの新宿、東京方面の七、八番ホームには電車が停車していないせいか、さほど混雑してはいなかったが、八番ホームの端、電車の停車位置からは離れた場所に一人の女性が立ち尽くしているのが目に入った。

(中略) 

何も恐れることはない、と道長の内なる声も聞こえる。どうせ、離脱した身だ。心定まらぬ女の誘惑を受け容れたところで、失うものなんてない。現金だって千円しか持っていない。

小心の自分を突き放す余裕を取り戻し、鼻から息を抜き、肩や腹筋に込めていた力を抜くと、ロックがかかっていた足が動くようになり、腕や首も軽くなった。

 今一度、ホームの端に目をやると、さっきまでそこに佇み、道長に揺れる眼差しを向けていた女性の姿が忽然と消えていた。飛び降りたのかと思って、線路を覗き込んでみたり、彼女がいた場所に近づいてみたりもしたが、そこには影も形も気配すらなかった。代わりに、彼女が佇んでいた場所には薔薇が一輪供えられていた。

(中略)

 皇居のある東京と陵墓のある高尾を結ぶ中央線は、いわばこの世とあの世の橋渡しをしているので、他の路線に比べ、死者のニッチが多いのである。中野に限らず、各駅の各ホームに自殺者ゆかりの場所があり、死者たちがそこに集うからである。

『ニッチを探して』Trainの章より

 

島田雅彦による、トポスでの『ニッチを探して』の朗読(土地への記憶化)

2021年10月27日(水) 11:38〜11:45

Longitude: 139° 39' 54.738" E Latitude: 35° 42' 22.728" N

JR中野駅8番線ホーム向かいの遊歩道

 
 

 
 

島田雅彦 SHIMADA MASAHIKO

1961年、東京都生れ。東京外国語大学ロシア語学科卒。1983年『優しいサヨクのための嬉遊曲』を発表し注目される。
1984年『夢遊王国のための音楽』で野間文芸新人賞、1992年『彼岸先生』で泉鏡花文学賞、2006年『退廃姉妹』で伊藤整文学賞を受賞。著書は『ニッチを探して』『天国が降ってくる』『僕は模造人間』『彗星の住人』『美しい魂』『エトロフの恋』『フランシスコ・X』『佳人の奇遇』『徒然王子』等多数。