保坂和志

HOSAKA KAZUSHI

小説 Novel


「夏、訃報、純愛」(『地鳴き、小鳥みたいな』講談社)

 八月十七日だった、午後二時少し前、私は駅に向かって歩いていると編集者である友人から携帯電話が鳴った、K先生が昨日亡くなられたとさっきネットのニュースで見ましたと彼は言った、私は今夜通夜かもしれない、そうでなくても先生のお顔を見に駆けつけなければならないと思い来た道を、わりと広い駐車場のところで引き返した。

(中略)

 私はそこで右に曲がる、右に曲がってすぐに左に伸びる短い袋小路があるそこに、ここに引っ越してきてすぐにグレイの長毛の猫がよく座っていた、長いシッポまで毛がふさふさで立って歩き出すとふさふさのシッポを幟旗みたいに立てた、今日はいないと思うと一区画離れたところをゆっくり歩いていた、ここに引っ越してきたのは七月末だったから私たちはちょうどこの時期にその猫を見るようになったわけだった、といっても今年は十五年前の八月よりずっと天気が悪かった、西日本の日照時間は記録的に少なかった、それからしばらく気温も低かった。

(中略) 

 その頃人生は一点の曇りもなかった、その頃は屈折も鬱屈もいろいろあると思っていた、しかし今思えば全部晴れやかな思い出だ、実家ではポチも元気だった、十歳を過ぎたばかりだった、私が帰れば喜んでポンポン上に跳び跳ねた、夜の道を怖がるようになるのはまだずっと先のことだ、ジョンの死は経験していたがジョンは若く、老いを経ない死だった、死も老いも私はずっと遠かった。

 猫は私に何も託さない、あの先生は小さなものを私に置いていった、私はそれを託されたと感じた、いや年齢とともにだんだんそう感じている、掠めただけのような関係だ。

「夏、訃報、純愛」より

 

保坂和志による、トポスでの「夏、訃報、純愛」の朗読(土地への記憶化)

2021年11月13日(土) 19:53〜20:09

Longitude: 139° 39' 22.122" E Latitude: 35° 39' 17.748" N

小田急線梅ヶ丘駅から少し歩いた住宅街

 
 

 

保坂和志  HOSAKA KAZUSHI

1956年、山梨県生まれ。鎌倉で育つ。早稲田大学政経学部卒業。1990年『プレーンソング』でデビュー。1993年『草の上の朝食』で野間文芸新人賞、1995年『この人の閾(いき)』で芥川賞、1997年『季節の記憶』で平林たい子文学賞、谷崎潤一郎賞、2013年『未明の闘争』で野間文芸賞、2018年、『ハレルヤ』所収の「こことよそ」で川端康成文学賞を受賞。その他の著作に『地鳴き、小鳥みたいな』『カンバセイション・ピース』『小説の自由』『あさつゆ通信』『猫の散歩道』ほか。現在、ほぼ隔月のペースで小説的思考塾をリモート開催している。